そんなに考えなくてもいいと思う

しかし、考えることをやめられない。今の目標は、考え過ぎて動けないから動きながら考えるへのチェンジです。

今年もいい出会いを授かった

今週のお題「2014年のお別れ」〈2014年をふりかえる 3〉

私は、本や雑誌を読んで心に残った文を手帳に書いています。

そんなわけでお題にのっかって、今年書いた文をつらつらと書いていきます。

 

 

オリジナリティは情報の真空地帯には発生しない

 

 遙洋子 『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房 2000年より

 

上野ゼミの合言葉のようです。

「情報の真空地帯」っていう響きが好きで。

自分なんてひたすら人の真似ばっかで、なんにもないじゃん。

って思っていても、その真似が自分を作っているのだと背中を押される言葉です。

 

 

 

もし仮にこの世に平等ということがあるとすれば、それはひとそれぞれ違うということを認める平等です。自分と違うからといって、ダメかダメじゃないかを判断しているなんておかしな話です。

 

みうらじゅん『さよなら私』 講談社 2009年より

 

平等を全て同じにすることだと捉えているのでは、と目が覚めます。

人はそれぞれ違うってわかっていても、自分と違うことが気持ち悪く思えてしまう。

基本的にふざけているようなみうらじゅんから、こんな言葉が発せられると

必要以上に重く受け止めてしまいます。

・・・それもねらっているんですか?

 

正義を犠牲にして、平和を築く 

 

ラジオで国際紛争解決人なる人が出演していて、その方の言葉。

残念ながらお名前などを忘れてしまったのですが、この言葉だけは妙に記憶に残っています。

この言葉を聞いてから、平和って言うのはキラキラした輝いているものではなくて、

どす黒くて隙間から弱弱しく光を放っているものではないかと見るようになりました。

大量虐殺の罪を問わない代わりに、これからの暴力をやめさせる。

もっと政治的な取引があるんだろうけど、そんなの庶民にはわからない。

理不尽でしょう。

殺された人の家族の叫びなんて黙殺です。

正義を貫くことが、平和を妨害しているなんて、直視したくない現実です。

でも、これって日本から遠い国の珍しい話じゃなくて、

今の日本にも言えることですよね。

犠牲にしているのは必ずしも正義ではないと思いますが。

 

 

 

 

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

 

 

さよなら私

さよなら私